2007年 04月 18日
『泣きたいぐらい喜劇(仮)』 |
板倉一成
企画から上映まで3ヶ月もなく、常に時間との勝負であった。もう撮影の準備が始まっている中で、僕は東京に向かった。脚本の最後の詰めと、京都国際学生映画祭のカタログ企画である瀬々敬久監督と井土氏の対談をとりにいくのが目的だった。
対談の最中も脚本のことが頭を離れることはなく、何か役に立つ言葉はないかと探し続けた。今読み返しても、本当に恥ずかしいことばかり質問しているが、思い出すのは、「取材しても最終的には“わからない”。“わからない”をどうフィクションで埋めるかなんだ。」という 井土氏の言葉である。対談の後、東京での最後の井土氏との打ち合わせをして、京都に戻った。京都では助監督の葛西氏が急ピッチで撮影の準備をしていた。未完成な脚本を携えて、僕も撮影の打ち合わせに参加した。しかし、この“未完成”な脚本では、撮影の準備も心もとないと何度か叱られた。
そして、東京のホテルで缶詰になって他の脚本を書いていた井土氏が、京都にやって来るまで・・・ねばりにねばった。早く来てほしいという気持ちと同時に、時間切れになるのが怖かった。
なんとか独力で完成させるが、井土氏は京都に来たと同時に、僕が書いた脚本を“物凄い形相”で書き変えていった。
僕はその後、二日間、最終稿を読むのが怖く、制作拠点になっていた町屋に行けなかった。その時に吉岡氏から「いいから来なよ」と電話をもらい、そこからは吉岡氏の指示で制作班に入り「自分の書いた脚本が映画になるところをしっかりと見ておきなさい」と言われた。
今でも自分の書いた脚本と 井土氏が京都で書き変えた最終稿を見比べる。
それは、あの東京での最後の打ち合わせの帰りに、駅に向かいながら「今回、脚本書いていて、自分の映画が撮りたくなったか?」と言われた時に「撮りたいです」と答えた自分がいたからである。
企画から上映まで3ヶ月もなく、常に時間との勝負であった。もう撮影の準備が始まっている中で、僕は東京に向かった。脚本の最後の詰めと、京都国際学生映画祭のカタログ企画である瀬々敬久監督と井土氏の対談をとりにいくのが目的だった。
対談の最中も脚本のことが頭を離れることはなく、何か役に立つ言葉はないかと探し続けた。今読み返しても、本当に恥ずかしいことばかり質問しているが、思い出すのは、「取材しても最終的には“わからない”。“わからない”をどうフィクションで埋めるかなんだ。」という 井土氏の言葉である。対談の後、東京での最後の井土氏との打ち合わせをして、京都に戻った。京都では助監督の葛西氏が急ピッチで撮影の準備をしていた。未完成な脚本を携えて、僕も撮影の打ち合わせに参加した。しかし、この“未完成”な脚本では、撮影の準備も心もとないと何度か叱られた。
そして、東京のホテルで缶詰になって他の脚本を書いていた井土氏が、京都にやって来るまで・・・ねばりにねばった。早く来てほしいという気持ちと同時に、時間切れになるのが怖かった。
なんとか独力で完成させるが、井土氏は京都に来たと同時に、僕が書いた脚本を“物凄い形相”で書き変えていった。
僕はその後、二日間、最終稿を読むのが怖く、制作拠点になっていた町屋に行けなかった。その時に吉岡氏から「いいから来なよ」と電話をもらい、そこからは吉岡氏の指示で制作班に入り「自分の書いた脚本が映画になるところをしっかりと見ておきなさい」と言われた。
今でも自分の書いた脚本と 井土氏が京都で書き変えた最終稿を見比べる。
それは、あの東京での最後の打ち合わせの帰りに、駅に向かいながら「今回、脚本書いていて、自分の映画が撮りたくなったか?」と言われた時に「撮りたいです」と答えた自分がいたからである。
by spiritualmovies
| 2007-04-18 22:08
| 制作日誌