2007年 04月 15日
芝居近くのフレーム外で |
鳥居真二(『複製の廃墟』篇・録音助手)
「言葉自体に意味はなく、その人自体に意味がある」という言葉を覚えている。失礼ながら誰が言っていた言葉なのか、いつ聞いたのかは全く思い出せない。たまにこの言葉をふと思い出す時がある。
例えばさまざまな音楽のジャンル。ブルース、ジャズ、パンク、…などなど。今現在、多くの人々に受け入れられている音楽の種類(ジャンル)は 当時の人々の社会的立場や その生活の中から生まれてきた。意味はそこにあった。どうして生まれ得たのか。CDショップで区分けされているジャンルには意味などは含まない。音楽の場合、当時を生きた人が少なくなるとともに 意味は歴史の中に取り残されていくものなのかもしれない。
映画の場合はどうなのだろうか。
“この映画が生まれたのも偶然ではない。”
何もわからず竿を振っていただけの名ばかり録音助手が何を口走っているのか、と思われるだろうか。
だが、録音助手は一番近いところで芝居を見ることができるポジションである。サークルで所有していたマイクの竿が短かったことも原因としてはあるのだろうが、場合によっては、他のスタッフから離れたところで2人の役者と自分の3人だけが1つの部屋に居あわせることもある。
考えてもみてほしい。夏の夜、照明が焚かれ蒸すような暑さの中。環境音が全く無いせいで自分の持つマイクが僅かでも拾ってしまうのではないかと、時折 軋んで鳴る指先の関節の音を神経質なほど気にする。少しでも動けば自分の体や頭上に掲げているマイクや竿が(またはその影が)フレームの中に映り込んでしまう。フレームとの境が、鼻の頭一寸先のときもあっただろう。スタッフは次々とスタンバイし、現場は徐々にテンションを増していく。助監督の声、カメラが回りだす。テンションが最高潮に達した瞬間、その場にいる学生スタッフ全員が縮みあがってしまうぐらいの大きな叫び声で監督のスタートがかかる。まだ、声の残響が残る中の一瞬の静寂の後、緊張感を含ませて静かに芝居は始まる。最後に一度竿を握り直しておくべきだったと後悔しつつ、セリフの順番通りにマイクを役者に向ける。自分の失敗で台無しにするわけにはいかない。
この映画に参加する以前に、末端のスタッフとして他の自主製作映画の撮影現場を経験したことはあった。レールやクレーン、雨を降らせる装置を使った現場もあったが、誇張なしでどの現場も、いつスタートがかかったのか気付かないほどの淡々としたものであった。少なくともぼくにはそうみえた。
一度として全く同じ演技・テイクはあり得ないのだと思うと、軍手の中の手はさらに汗で蒸しかえしたものだった。
“この映画が生まれたのも偶然ではない。”
その場にいる全員が同じように共有する張りつめたテンションが充満する中、ぼくは芝居に一番近いところでそう感じざるをえなかった。そう感じてしまうほどのエネルギーだった。違う役割を演じていた学生スタッフ各々も同じように“何か”を感じていたに違いない。
「言葉自体に意味はなく、その人自体に意味がある」という言葉を覚えている。失礼ながら誰が言っていた言葉なのか、いつ聞いたのかは全く思い出せない。たまにこの言葉をふと思い出す時がある。
例えばさまざまな音楽のジャンル。ブルース、ジャズ、パンク、…などなど。今現在、多くの人々に受け入れられている音楽の種類(ジャンル)は 当時の人々の社会的立場や その生活の中から生まれてきた。意味はそこにあった。どうして生まれ得たのか。CDショップで区分けされているジャンルには意味などは含まない。音楽の場合、当時を生きた人が少なくなるとともに 意味は歴史の中に取り残されていくものなのかもしれない。
映画の場合はどうなのだろうか。
“この映画が生まれたのも偶然ではない。”
何もわからず竿を振っていただけの名ばかり録音助手が何を口走っているのか、と思われるだろうか。
だが、録音助手は一番近いところで芝居を見ることができるポジションである。サークルで所有していたマイクの竿が短かったことも原因としてはあるのだろうが、場合によっては、他のスタッフから離れたところで2人の役者と自分の3人だけが1つの部屋に居あわせることもある。
考えてもみてほしい。夏の夜、照明が焚かれ蒸すような暑さの中。環境音が全く無いせいで自分の持つマイクが僅かでも拾ってしまうのではないかと、時折 軋んで鳴る指先の関節の音を神経質なほど気にする。少しでも動けば自分の体や頭上に掲げているマイクや竿が(またはその影が)フレームの中に映り込んでしまう。フレームとの境が、鼻の頭一寸先のときもあっただろう。スタッフは次々とスタンバイし、現場は徐々にテンションを増していく。助監督の声、カメラが回りだす。テンションが最高潮に達した瞬間、その場にいる学生スタッフ全員が縮みあがってしまうぐらいの大きな叫び声で監督のスタートがかかる。まだ、声の残響が残る中の一瞬の静寂の後、緊張感を含ませて静かに芝居は始まる。最後に一度竿を握り直しておくべきだったと後悔しつつ、セリフの順番通りにマイクを役者に向ける。自分の失敗で台無しにするわけにはいかない。
この映画に参加する以前に、末端のスタッフとして他の自主製作映画の撮影現場を経験したことはあった。レールやクレーン、雨を降らせる装置を使った現場もあったが、誇張なしでどの現場も、いつスタートがかかったのか気付かないほどの淡々としたものであった。少なくともぼくにはそうみえた。
一度として全く同じ演技・テイクはあり得ないのだと思うと、軍手の中の手はさらに汗で蒸しかえしたものだった。
“この映画が生まれたのも偶然ではない。”
その場にいる全員が同じように共有する張りつめたテンションが充満する中、ぼくは芝居に一番近いところでそう感じざるをえなかった。そう感じてしまうほどのエネルギーだった。違う役割を演じていた学生スタッフ各々も同じように“何か”を感じていたに違いない。
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by spiritualmovies
| 2007-04-15 22:43
| エッセイ