2007年 04月 17日
『ブルーにこんがらがって(仮)』 |
板倉一成(『蒼ざめたる馬』篇・脚本)
今、改めて『蒼ざめたる馬』が続編を連ね、『ラザロ』という映画として 公開されようとしている中で、ウェブサイトの“CAST/STAFF”ページに 自分の名前が載っているのを見ると、新しい記憶として3年前の出来事が思い出される。と同時に、それを飲み込めない自分がいる。そして、恐らくこの映画が3年間動き続けてきたことと同様に、自分の中の3年前の出来事は現在進行形で動き続けているような気がする…。
と思い出しながら書くので、ノスタルジックな言葉に回収されてしまうのであろうなぁと思いながら、3年前のことを書いてみる。
僕が井土氏と初めて電話で話した時は、緊張で声が震えていたような気がする。それからすぐにメールをもらい、そこには脚本の書き方も知らない 僕とプロデューサーの木村氏に「徹底的に取材しろ」、そして「笠原和夫の“取材なくして、想像力なし”を思い出せ」と記してあった。すぐに新聞・週刊誌をあたるべく図書館に行き、年表を作り、登場人物の関係を一枚の紙に書き連ねた。紙の上でひとしきり、あーでもない、こーでもないと言っているうちに、東京に行くことになった。初めて会う井土氏に萎縮しながらも、考えている設定などを話した。そこに吉岡氏という男性が現れ、その時は誰だかわからないまま話を聞いていたが、その後、吉岡氏には何度か救われることになる。
京都に戻り、とにかくプロットを作ることになった。しかし、最後まで書けない。未完成のまま井土氏にメールを送り、電話で話し、アドバイスをもらう、それの連続であった。事実が羅列された僕の脚本に、井土氏は「関係性を描け」、「ひとつひとつのシーンに狙いをつけろ」などと細かく指示を出した。プロデューサーの木村氏に相談しながら、井土氏から発せられる言葉にしがみついた。
吉岡氏の“ラザロ制作ノート<蒼馬編 その4>”(当ブログ4月14日)の中に、
“物凄い形相”という言葉がある。
今でも思う。脚本を書く上で何かが足りなかったのではなく、僕はまだスタートラインに立てていなかったのであろうと。だから【脚本:板倉一成・井土紀州】と載っていても、その文字がうまく喉の奥へ通ってくれない。ずぶの素人が書いた脚本をスタートラインに立たせたのは、その“物凄い形相”なのであろう。
今、改めて『蒼ざめたる馬』が続編を連ね、『ラザロ』という映画として 公開されようとしている中で、ウェブサイトの“CAST/STAFF”ページに 自分の名前が載っているのを見ると、新しい記憶として3年前の出来事が思い出される。と同時に、それを飲み込めない自分がいる。そして、恐らくこの映画が3年間動き続けてきたことと同様に、自分の中の3年前の出来事は現在進行形で動き続けているような気がする…。
と思い出しながら書くので、ノスタルジックな言葉に回収されてしまうのであろうなぁと思いながら、3年前のことを書いてみる。
僕が井土氏と初めて電話で話した時は、緊張で声が震えていたような気がする。それからすぐにメールをもらい、そこには脚本の書き方も知らない 僕とプロデューサーの木村氏に「徹底的に取材しろ」、そして「笠原和夫の“取材なくして、想像力なし”を思い出せ」と記してあった。すぐに新聞・週刊誌をあたるべく図書館に行き、年表を作り、登場人物の関係を一枚の紙に書き連ねた。紙の上でひとしきり、あーでもない、こーでもないと言っているうちに、東京に行くことになった。初めて会う井土氏に萎縮しながらも、考えている設定などを話した。そこに吉岡氏という男性が現れ、その時は誰だかわからないまま話を聞いていたが、その後、吉岡氏には何度か救われることになる。
京都に戻り、とにかくプロットを作ることになった。しかし、最後まで書けない。未完成のまま井土氏にメールを送り、電話で話し、アドバイスをもらう、それの連続であった。事実が羅列された僕の脚本に、井土氏は「関係性を描け」、「ひとつひとつのシーンに狙いをつけろ」などと細かく指示を出した。プロデューサーの木村氏に相談しながら、井土氏から発せられる言葉にしがみついた。
吉岡氏の“ラザロ制作ノート<蒼馬編 その4>”(当ブログ4月14日)の中に、
“物凄い形相”という言葉がある。
今でも思う。脚本を書く上で何かが足りなかったのではなく、僕はまだスタートラインに立てていなかったのであろうと。だから【脚本:板倉一成・井土紀州】と載っていても、その文字がうまく喉の奥へ通ってくれない。ずぶの素人が書いた脚本をスタートラインに立たせたのは、その“物凄い形相”なのであろう。
by spiritualmovies
| 2007-04-17 18:25
| 制作日誌