2007年 04月 03日
夜の底 3 |
木村文洋
2006年、12月、沖縄の夜の底。
京都の夜の底は、あれから何日か続いて、そのまま朝につながった。田中と私と辻村は制作へ、板倉は井土・吉岡氏に相談に東京へ、みな散り散りになる最後の晩に集まり、朝まで話し合い、それをギリギリまでまとめていった。私達が書いたシナリオは、二つの台詞だけが残った。私達は一体、あの事件の何に反応したのか?たった一篇の完成した『蒼ざめたる馬』をスタッフ全員で初夏に観て、映画祭で上映しても、マユミという女性が一体何を望んでいるのか?という最も難しい問いで答えがつまってしまうのと同様、なかなかその問いへの答えを得られないまま時間は過ぎていった。
3年ほどの月日が経ち、あれ以来、再び一つの現場でシナリオを詰める機会がとうとう訪れないまま、それぞれの映画現場に散った私、板倉、田中、辻村。一人で自作の脚本を書き続けることにも煮詰まった私は、親友の映画作家・小谷忠典に誘われて、カメラを持って沖縄の夜にいた。
沖縄・コザの傍らにある60年以上の歴史を持つ遊郭。そこここの店のガラスには度々、「外国人はお断り」と英語で貼ってある。米兵による残忍な事件が数え切れないほど頻発したこの場所では、外国人を客に取らない娼婦も多い。そして沖縄に二人で行って気付いたことだが、この土地には沖縄以外からの移住者も本当に多い。小谷さんは娼婦の裸体をカメラで見つめていくことで、沖縄に来なければならなかった彼女達の人生、傷を記録しようとしているのだという。私は遊郭の女性にカメラを向ける動機がとうとう見つからず、次の日から基地の方へ流れていった。沖縄の冬でもナマ暖かい、夜の底。小谷さんとバカみたいに、他人の人生は重い、なんて当たり前の話をした。映画にするなんて一体どういうことなのか。他人と時間を何とか共有でき、その時間は撮ることは出来ても、それだけでは映画にはならない。
井土氏は、あの聴いてもいないボコッ—という音を、そこを考えることから「映画にすること」を始めた。今はそう思えてならない。映画にすることから、自分があの事件に何を見ようとし、何を見たいと思ったのかを見つけようとしていったのだろう。それは怖い作業でもあると思う。「映画にすること」の恐怖に負けると、映画をやめたくなる。私は今そうした心境に襲われる夜の底にいながら、小谷さんが沖縄から帰ってきてから書いた、大好きな言葉を思う。
旅で想う。なぜ、生きてるものは、
自分だけで満足できないのだろうか。
自分だけを愛せないのだろうか。
誰かを愛そうとするのだろうか。
『ラザロ-LAZARUS-』は一つに、マユミの旅の映画といえると思う。
彼女はこの旅で、こんな言葉を思わなかったか。何故かどうしても、そのことが気になった。
2006年、12月、沖縄の夜の底。
京都の夜の底は、あれから何日か続いて、そのまま朝につながった。田中と私と辻村は制作へ、板倉は井土・吉岡氏に相談に東京へ、みな散り散りになる最後の晩に集まり、朝まで話し合い、それをギリギリまでまとめていった。私達が書いたシナリオは、二つの台詞だけが残った。私達は一体、あの事件の何に反応したのか?たった一篇の完成した『蒼ざめたる馬』をスタッフ全員で初夏に観て、映画祭で上映しても、マユミという女性が一体何を望んでいるのか?という最も難しい問いで答えがつまってしまうのと同様、なかなかその問いへの答えを得られないまま時間は過ぎていった。
3年ほどの月日が経ち、あれ以来、再び一つの現場でシナリオを詰める機会がとうとう訪れないまま、それぞれの映画現場に散った私、板倉、田中、辻村。一人で自作の脚本を書き続けることにも煮詰まった私は、親友の映画作家・小谷忠典に誘われて、カメラを持って沖縄の夜にいた。
沖縄・コザの傍らにある60年以上の歴史を持つ遊郭。そこここの店のガラスには度々、「外国人はお断り」と英語で貼ってある。米兵による残忍な事件が数え切れないほど頻発したこの場所では、外国人を客に取らない娼婦も多い。そして沖縄に二人で行って気付いたことだが、この土地には沖縄以外からの移住者も本当に多い。小谷さんは娼婦の裸体をカメラで見つめていくことで、沖縄に来なければならなかった彼女達の人生、傷を記録しようとしているのだという。私は遊郭の女性にカメラを向ける動機がとうとう見つからず、次の日から基地の方へ流れていった。沖縄の冬でもナマ暖かい、夜の底。小谷さんとバカみたいに、他人の人生は重い、なんて当たり前の話をした。映画にするなんて一体どういうことなのか。他人と時間を何とか共有でき、その時間は撮ることは出来ても、それだけでは映画にはならない。
井土氏は、あの聴いてもいないボコッ—という音を、そこを考えることから「映画にすること」を始めた。今はそう思えてならない。映画にすることから、自分があの事件に何を見ようとし、何を見たいと思ったのかを見つけようとしていったのだろう。それは怖い作業でもあると思う。「映画にすること」の恐怖に負けると、映画をやめたくなる。私は今そうした心境に襲われる夜の底にいながら、小谷さんが沖縄から帰ってきてから書いた、大好きな言葉を思う。
旅で想う。なぜ、生きてるものは、
自分だけで満足できないのだろうか。
自分だけを愛せないのだろうか。
誰かを愛そうとするのだろうか。
『ラザロ-LAZARUS-』は一つに、マユミの旅の映画といえると思う。
彼女はこの旅で、こんな言葉を思わなかったか。何故かどうしても、そのことが気になった。
by spiritualmovies
| 2007-04-03 19:22
| エッセイ